2 逃走。
「リリカちゃーん」
「………え?」
「もうっ、ボーっとしちゃって。ちょっと 上向いてくれる?…で、唇少しだけ開いてね」
あたしは、細い紅筆にとられた、ほとんど色の付いてないグロスを唇に塗ってもらいながら、
また あの彼の事を思い出している自分を恥じた。
あの夜から、何日目?…ううん、ホントは分かってる。今日で ちょうど、2週間。…だっ
て、毎日 朝が来るたび一番に 彼の事が頭に浮かんでしまうから。
発売が終了したせいで、最近プレミアが付いている、あたしの マスコット付きケータイ
ストラップ。あの妖精バージョンは もう街で手に入らないんだ。もうすぐ新しいバージョン
のが発売されるから。
あの人は気付いてくれたかな…。
だって多分、あたしが誰だか 知らなかった。
無理もないよね、だって すっごく忙しそうだったし。あの日だって、時間 気付いてなかった
けど、ベッドに入ってから枕元にある彼の時計を見たら、3時過ぎてたもん。
「怒るの、無理ないよ………」
あたしは、知らず また、ため息を付いていた。
「なぁに、恋わずらいみたい」
付き人の英子さんは、時々 あたしの知らない単語を使う。
「コイワズライって何?」
「やだァ、もォ、あたしがオバサンみたいじゃないの」
そう言って、両手を口元に当てて微笑う彼女は、30歳。いつもスッピンに近い。メガネも
ちょっと 今っぽくないモデルだし、服も…なんて言うのか、主婦の普段着、って感じに近く
て、よく言えば シンプル&ナチュラルなんだろうけど、あたしは嫌い。ショートにした髪も、
中学の校則で決められてた模範スタイルみたい。ヘアダイしてない黒。
唯一、許してあげようか、って思うのは、ちゃんと 体型だけはキープしていて、それほどオバ
サンっぽくない点くらい。
「恋わずらい、ってのは、片想いの人の事ばっかり考えては、うつむいてため息ついちゃう
状態のこと。あたし達の学生の頃はねぇ、帰り道にほら、道端で野菊なんか見つけると
ね、花びらをね、こう一枚ずつ千切りながら、『好き』『嫌い』『好き』『嫌い』 って…、」
そう言って、彼女は自分の話した話題に一人でウケて、恥ずかしそうに赤くなりながら
また笑った。…彼女は都会出身の人じゃない。だって、道端に野菊だよ ?! 東京の真ん
中じゃ、有り得ない。…もっとも、それはあたしも そうだけど。
「───…なにそれ、自分が相手の事、好きか 嫌いかもわかんないの?だからそんな
事するんだ?」
「違うわよォ、自分が、じゃなくって、相手が!相手が自分の事、どう思ってくれてるか
なーっ、て。」
「 ! 」
聞くなり真っ赤になってしまった あたしの首筋を見て、きっと英子さんは 確信を得たに
違いない。
やだやだ!バレたかな ?! そんなの悔しい!格好悪すぎるっ!
「ち、違うから…!言っとくけどっ、今 あたしが考えてたのは、例のストーカーの事だから
ね…!もうっ、ホント、やんなっちゃう… !!」
あたしのフォローは、うまくいったみたい。
英子さんは うなずきながら、頬に手を当て、「そうよね…、」 と、やや深刻にうなずいて
みせた。
あたしにしつこく付きまとう、若い男が一人。…若いっていったって、20台半ば?後半?
いい歳して、あたしに夢中で、何か勘違いしてて………。
一人のところを あいつに付けられて、何かひと気のない、どっかの駐車場みたいな場所に
連れて行かれて…。そこで数時間、押し問答して、気が付けば夜中をとっくに回ってた。
あたしが 「あの人」 に出会ったのは、あのストーカー野郎と モメてた時。
…ストーカーAは、あたしと二人きりになっても、あたしに指一本 触れる勇気さえない
腰抜けヤローだった。代わりに、「僕の本気を分かってくれ、受け入れてくれ、真剣なんだ」
とだけ、しきりに繰り返していた。「僕の気持ちさえ理解してもらえるなら、後は
何も望ま
ないから」、と。
数時間、彼と押し問答しているうちに、だんだん相手の声のトーンは落ちてきて、最後
には蚊の鳴くような声で、独り言みたいに 同じ言葉をブツブツ繰り返し始めてた。
密室に閉じ込められていなかったのは、不幸中の幸いだった。ストーカーAは ずっとビクビク
と何かに怯えてて、後ろばかり振り返ってたから、駐車場から 隙を突いて抜け出せた。
だけど 敵もしつこくて、走っても 走っても、あたしは逃げ切れなかった。
とうとう手首を掴まれて、さすがにあの時には 血の気が引いた。
「リリカちゃんは僕を好きなんだ、リリカちゃんは僕を好きなんだ、リリカちゃんは、」
彼の力は予想以上で、でも 声はやっぱり蚊の鳴くようで。
表情の無い顔が 不気味で 不気味で、悲鳴をあげてしまいそうなほど、ホントは怖かっ
た。
そんな時に、誰も通らなくなった夜道、いきなり ヘッドライトが角を曲がって、こちらを照ら
して近づいて来た。目のくらむような、強い光が二つ。まるで 神の助けに見えた。
そうして、あたしは 安全地帯に逃げ込んで…。ガラス扉一枚挟んだ向こう側、遮断され
た暗い闇の中で 扉を叩き続け、あたしを呼び続けるストーカーA。
あたしは まばゆいばかりのホテルみたいなシャンデリアの下、クラシック音楽の優雅に流れる
別次元へと瞬間移動したみたいだった。
高級マンションのエレベーターホールで、ようやく 小さく息を付くことが出来た。
二人きり。助けてくれた男の人は、チャコールグレーのスーツに 緑っぽい青のネクタイ姿。
スプリングコートは無し。…あ、でも助けてくれた、ってのは ちょっと違う。けれど
あの場の
あたしにとっては、その人の存在が 救いにしか見えなかった。
背が高い。肩も広い。大人の人の年齢って よく分からないけど、きっとストーカーAよりは
年上。睨むみたいに見下ろされて、ようやくあたしは 安全地帯に入ってホッと
肩を撫で
下ろしたのも束の間、再び緊張に 肩をこわばらせなければならなかった。
だけど、その人は あたしと目が合っても、決して逸らしはしなかった。じっと見下ろして
こられるから、逆に あたしのほうが、ドギマギと うろたえてしまったほど。
その時あたしは なぜか、理由もなく その人を信じてしまった。───…いい人だ、何か
分からないけど、この人は大丈夫、って。
だって、嘘つく人や 後ろめたさを持ってる人って、すぐに目を逸らすでしょ。こんな風に
真正面から人の目を見て逸らさない人なんて、あたし 初めて出会ったの。
多分、恋に落ちてた。
あの時には、まったく気づいてなんか いなかったけど。
彼の強い視線、低く響く声、大人の男の人の雰囲気───…いつも仕事で接している
男の人たちには全く感じない、誰にも媚びてない 孤高の狼みたいな、冴えた空気。
少しバラけて 額にいく筋か落ちた髪、エレベーターの壁にもたれて、片方だけをスーツの
パンツポケットに突っ込んでいる。
何してる人なんだろう。
会社員、って感じじゃない。
だけど お店やってる人でもない。
たった今、請け負った仕事を終えてきたばかりの 殺し屋─────もしも そう名乗られ
たら、簡単に信じてしまいそう。
あたしは完全に 上がってしまってた。
自分が何を口走ってるのか、言葉が 脳を上滑りして、認識できないほど。
妙に早口になっちゃって、妙に声は高くて。
………きっと、彼にかまって欲しかった。
彼の事、教えて欲しかった。
それから、ちょっとだけ、癪だった。
………だって、この世の中に、あたしの事 知らない人が居るんだ、って 思い知らされた
から。
普通、男の人はみんな、あたしを見ると 目の色変えて、あれこれチヤホヤしてくるもの。
それに慣れてしまいつつあったから、逆に 半ば無視されて、焦った。
だからワザと 憎まれ口ばかり利いて、何とかこちらのペースに 彼を乗せてしまいたかった。
………何であんなにも、必死になっしまったんだろうな。
後から冷静になってみれば、妙な事だよね。
しかも─────あたしってバカだ。
普通、怒って、嫌って忘れちゃうはずの人を、あの日からずっと 目の中に強く 強く 焼き
付けてる─────… 一つ残らず、覚えてられるように。彼の仕草、彼の声、彼の
視線、 …彼の腕、彼の唇─────…。
手が届かないほど、大人な男の人だった。
今、鏡の前に立つ、黄色いヒラヒラした衣装を身に付け、メイクを終えたあたしは、すごく
綺麗で愛らしくて、この世のものじゃないみたいだった。
これから、TVのコマーシャルフィルムと、商品のカタログ用スチール写真の撮影に入る。
この、鏡の中に居るあたしって、一体 誰なんだろう。
抜けるような肌。妖精みたいな髪。お人形みたいな まつ毛と手足。
CGで出来た、幻?
それくらい、リアリティが無い。
あたしの知らない、誰か。実在しない女の子って感じがする。
この唇には、ホントに「あの人」が触れた…?
「あの人」の事さえ、油断した途端、幻みたいに思えてしまう。
だから、毎朝 しっかり記憶に刻みつけなきゃ。
あれが 嘘でも幻でもなかった、って。
その日の夜は、事務所の社長さんが 食事に誘ってくれた。英子さんは 先に帰って
いった。
ちなみにあたしは 今、事務所借り上げのマンションじゃなく、英子さんのマンションに居る。
あのストーカーAに自宅を知られてしまい、しつこく付け回された挙句に、あの夜の出来事
───…。朝、帰宅したあたしを、英子さんや事務所の人たちは 朝まで寝ずに探してて
くれて…、英子さんは あたしの顔を見るなり、泣き崩れるみたいに抱きついてきた。
そして その日から、あたしは一人暮らしの英子さん宅に避難中。
『ストーカーなんて、人気とセットみたいなもんだよ。』
話を聞きつけた、某TV番組のプロデューサーは、慰めか 何なのかよく分からない言葉と
ともに明るく笑って、その後 あたしのお尻に触れてきた。
「きゃっ ?!」
振り向くと、「あぁ、ごめんね、糸くずが付いてたからね」 だって。嘘つき。
この世界に入って…右も左もよく分からないまま、気が付けば1年とちょっと。
あれよ あれよ という間に人気が出て、それを不思議にも思わなかった。あたしなんだから
当たり前、って思ってた。かなり調子に乗ってたと思う。
だけど、この頃 ちょっとだけ思う。
ホントは この業界の大人の人、口で言う半分も あたしを可愛いと思ってないし、あたしを
大切にも思ってない。
あたしは 大人達からナメられてる子供。代わりは はいて捨てるほど居るんだから、って
暗に言われてる気分。おだてて、調子に乗せておけばいいんだ、って。みんな
扱いを
心得てる。まるで道具の一つみたいに。
「今日、一緒に食事する先生は偉い方でね、TV局のほうとも繋がりがあるから、先生の
とりなしがあれば、月曜8時枠のドラマ取れると思うんだよね。」
「ドラマ取れる?」
社長の言葉の意味が すぐには把握できなくて、あたしは繰り返した。
「だーかーらー、主役!」
「 ?! 」
主役 ?! それもドラマの ?!
「相手役は多分、J事務所のTくんあたり? 女優のほうが まだ決まってないんだよね」
「……………。」
あたしの胸は躍った。一気に、重力を失くしたみたいに、身体がフワフワしてくる。
嘘…主役 ?! 今までドラマ、二回出たけど、どっちも ゲスト出演みたいな感じだったん
だよ…?
それが、レギュラーの脇役通り越して、いきなり主役なんだ ?!
あたしの頭の中から、政治家の先生の名も、社長の 「お行儀よくね」 という言葉も、全て
吹き飛んでしまってた。
思考の全てが、ドラマの事で いっぱいになっちゃって。
指先まで小刻みに震えてくるから、胸の辺りで組んだ。
「あたし やりたい…っ、絶対やりたいっ」
上ずるあたしの声に、社長は 満足そうにうなずいていた。
高級料亭?(って行った事ないから 分かんないけど、) 今あたしが居る場所は、個室に
なったお座敷。
畳の色は真新しい緑色。さっきから、あたしは社長に促されて、「政治家先生」の おちょこ
にお酒を注いでいる。
「極力しゃべらないで ニコニコしてれば大丈夫だからね」
そう社長に言われて、その通りにしてた。そうしたら社長は 1時間ほどで、先に帰ってしま
った。
座卓を挟んで座ってた先生が、「まぁ こっちに来なさい」 と手招きするので、しぶしぶ従っ
た。
先生はあたしの手を掴むと自分の膝の上に載せて、その上から自分の手でさするように撫でてきた。
手の甲は 黄色っぽくてハリがなく、ちょっとぽっちゃりしてて、いくつもの茶色い斑点がある。
お父さんというより、おじいちゃん?そんな感じの手。
だけど、徐々に生理的な不快感は あたしの胸に渦巻き始めた。嫌な予感、胸騒ぎ。
なんとも言えない、得体の知れない危機感。
「───…や、やだっ、」
肩を引き寄せられて、咄嗟に 手で突っぱねていた。
怒らせた ?!
慌てて 先生の顔色をうかがう。
だけど、先生は 微笑みを浮かべてた。
内心、胸を撫で下ろした。───…よかった、怒らせてない。
「可愛いねぇ リリカちゃんは。…さぁて そろそろ帰ろうか」
「は、はい」
よかった、助かった。
安堵のため息を 小さくついて、あたしは先生の後に続いて 座敷を後にした。
先生のリムジンに乗せられる。
英子さん宅の住所を告げた。
………だけど。
「───…えっ?」
リムジンは、右折するはずの看板を通り越し、そのまま直進する。
「まぁまぁ、いいじゃないか。私の部屋で、コーヒーでも飲んで帰りなさい」
先生は再び、あたしの肩に腕を回してくる。
「……………、」
あたしは困惑してた。だって、どうしていいのか分かんない…!『嫌です』 って言っても いい
んだろうか。社長は居ないし、どうしたら…っ。
うろたえてる間にも 先生の手は、あたしの上腕を滑り降りるようにして、腰を抱いてきた。
「ちょ、ちょっと電話して聞いてみますっ、」
ケータイを バッグから取り出そうとして、思いもよらぬ力で その手を押さえこまれた。
「… ?!」
目が合う。
大きなべっ甲縁のメガネ。その向こうの目は、鋭い。
先日の、ストーカーAの眼差しとダブる。
やだ………怖いよ… !!
「ドラマの件、忘れてないよ?」
その一言で、ようやく あたしは察した。
社長にとって、あたし自身が 『菓子折り代わり』 だったんだ… !! 仕事の契約と引き換え
の、『貢ぎ物』…!
「や、やだっ、離して…っ、やだ、降りますっ、」
夜更けの東京に、雨がパラつき始めた。
信号や ネオンサインが、窓の向こうで 滲み始める。
隣りに座る どっしりと大柄なその人は、到底 あたしの意見など聞き入れてくれる様子も
なかった。
あたしは 逃げる決意を固めた。
これ以上 懇願しても、離してもらえそうにない。
だったら、逃げ出すしかない…!
信号で、リムジンが停車する。
先生が、運転手に何か問われて 返事に意識を取られているうちに、窓際のロックを解除
した。
そして、信号が青に変わり、クルマが動き出した瞬間。あたしはドアから 外に飛び出した。
「…………… !!っ 」
転がり落ちて、危うく 隣りの車線を往く車に 跳ねられるところだった。
目の回るような視界の向こう、リムジンは遠ざかる。…早く、リムジンが 路肩に停車する
前に、出来るだけ早く 身を隠さなくちゃ…!早く、早く…!
あたしは逆方向に走った。
路面は雨に濡れていて、きっと あたしの白いロングスカートは、泥まみれになっていたけれ
ど、今はそんな事、どうでもいい。
もつれる足で、とにかく走る。
英子さんのマンションは、それほど離れてない。
駅まで行き、慌てて改札をくぐった。
気が動転していて忘れてたけど、みんながあたしを ジロジロ見ていた。
車両に乗り込むと、数人のサラリーマンが声を掛けてくる。酔ってるみたいだった。
「リリカじゃないのー?」
近寄られて、アルコールの臭いが鼻につく。
「ち、違うっ、違います、」
あたしは3人組から顔を背けて、ドア際に身を寄せた。
「あーあー、どうしたの、スカート、汚れてるよー?」
間延びした口調で、酔っ払いたちは あたしのスカートに触れようとしてくる。
「触らないでよ !!」
思わず、不必要に大きな声で怒鳴ってしまい、車両中の視線を集めてしまった。
「おー怖えー」
「行こ行こ」
彼らが あたしをからかうのに興味を無くしたように立ち去る。
「……………っ、」
一人になると、無性に悔しさが込み上げてきて、泣きたくなるのを、歯を食いしばって耐え
た。
泣いちゃダメだ、こんな事で 泣いてなんかやるもんか…!だって そんなの、悔しすぎるから
…!
手の甲で涙を拭ったら、目の周りのアイライナーが、腕に付いた。
やっとの思いで、マンションの明かりを見つける。
「英子さん…、」
電車を降り、約10分。角を曲がった向こうに、やっと ホッと出来る場所があった。
建物を見上げながら、あたしはやはり もつれそうな足を前に出し、水中を掻き分けるよう
に急いだ。
「 ッ !! 」
その時、何者かに、口元を手でふさがれた。
「……………っ、」
背後から、あたしを押さえつける気配。
呼吸が出来ない。
「…んん…っ、」
「リリカちゃん…」
その声に、全身が総毛立った。────ストーカーAだった。
あたしは その後の事を、あまりよく覚えていない。
通りかかった人に助けを求め、ケーサツ呼んで!と 叫んだ気がする。
その声に反応したのは、実は通行人じゃなく 気の小さいストーカーAで、彼は
慌てて
その場から逃げ出した。
あたしは 彼の姿が消えた方向とは逆方向へ全速力で走りながら、英子さんに電話して
いた。
呼び出し音は鳴る。…だけど、いくら待っても、彼女は応答しない。
何度も震える指でコールして、ようやく気付いた。おそらく、今の時間は 入浴中なのだ。
彼女は ケータイをバイブレーションモードにしてる事が多いから、きっと気づかない。
いや…それ以前に。彼女も、今日の 社長の目論見を知っていたとしたら ?! 彼女はホン
トに あたしの味方なの ?! あたしが逃げ帰って来たと知って、社長に連絡するんじゃ ?!
そしたら あたしは一体、どうなるんだろう… ?!
走りながら、また 涙が溢れそうになる。
なけなしのサイフから お金がいくら入ってるのか確認して、タクシーを呼び止める。
「あの人」 の顔しか、思い浮かばなかった。
東京に出てきて1年半、友達なんて居ない。頼れる人も、英子さんとマネージャーぐらい。
社長は、もう あてに出来ない。他に、優しくしてくれる人の事も…今はとても
信じられそう
もなかった。
誰もが、自分を食い物しにしてやろうと、機会を伺っている 汚い生き物に見えた。
「あの人」 に幻想を抱くのは、間違ってるのかもしれない。
あの人こそ、本当に悪い人なのかも。
大体、信じるための根拠なんて 何ひとつないんだもん…。
だけど、あたしの直感は 「あの人」 のところへ行けば大丈夫、って訴えてる。
安全地帯。
この、人間の皮を被った魑魅魍魎たちが渦巻く 夜の闇の街、ガラス扉の向こうは
別
次元。オレンジ色した まばゆい光が、待ってくれてる。
そう信じなきゃ、もう どこへも行けない。
─────「あの人」 の住居までは、到底 タクシーでは行けなかった。仕方なく、
手持ちのお金を 全額はたいて、行けるところまで走ってもらい、そこから また歩いた。
身体は疲れ切っていて、小雨に濡れていて。足は重く、身体にくっついている邪魔な
棒のよう。
今のあたしって、まるで 道端にうずくまっている、ドロに汚れた 捨てネコみたい。
もう真夜中だった。
すごく惨めな気分に襲われた。
昼間、CMフィルムの撮影で、着飾って鏡の前に立っていた ヒラヒラの天使みたいな自分
は、やっぱり幻のCGみたいな存在だと 思い知らされた。
今の、この 行くところさえないまま 独り彷徨ってる、都会のはぐれ子が ホントのあたしなん
だ。
涙を 手の甲で拭った。
うつむきながら、それでも 「あの人」 のマンションを目指す。
名前も知らない人。
たどり着いたところで、あの人は あたしの事なんかもう、覚えてないかも知れない。
酷い言葉でののしられて、追い返されるのかも知れない。
そうしたら あたしは、今度は どこへ行こう。
…今は考えても仕方ない。いい智恵だって浮かばない…。
「…寒い………」
消えてなくなりたいほど、都会は 今のあたしには冷たすぎた。
|
|
|
|
「オレ様とプリンセス」−2 Written by; Tamaco Akitsushima |
|
|